モナco's diary 〜天に宝を積む生活

日々の生活を丁寧に祈るように生きる・・・ってか⁈♪( ´θ`)ノ

「供養」とは。

ごきげんよう、モナcoです(^-^)

 

日本の習慣の中に先祖を供養する行事があります。

「春・秋の彼岸」「お盆」など。

 

皆さんはこのような行事の折にご先祖さまに手を合わせるかと思いますが、

どのようなことをお伝えしていますか?

 

お願い?

頼る??

嘆きすがる???

 

近代スピリチュアリズム霊的真理の考えからすると

亡くなった方の霊はこの世での修行を終え、

元の世(俗に言うあの世)へ戻ったという解釈となりますが、

あの世に戻っても継続して修行(浄化)は続いています。

ですから、

「なぜ、死んでしまったの!!」

「私達のことしっかり見守っていてね。」

「家族の病気が治りますように」

などと言う祈りはあの世にいる霊にとっては邪魔となってしまいます。

霊からするとさらに浄化の道を進もうと思っているのに、後ろから引かれてしまう。

なかなか前に進むことができませんね。

 

供養において大切なことは

「現世にいる私達が日々をいかに前向きに生きているか」が最大の供養となります。

 

そしてお墓の前でなくても思い(念)と言うものは伝わります。

ふとっ、故人の顔を思い出した時、その場でも思いは伝わります。

そんな時は

「私は日々自立・自律した生き方を志し精進しております。

◯◯◯さんもそちらで向上の為の精進を頑張ってください。」

などとお伝えするといいですね。

 

お墓や仏壇に供える供物についても、

よく故人が好きだったものをお供えする傾向がありますが、

一部を除いてほとんどは好きだったものに執着してしまい、

なかなか浄化できずに未浄化霊として残ってしまうことがあります。

未浄化霊と言うのはこの世に何かしらの思い(念)が残ってしまい、

あの世にいけない霊のことです。

よろしくないことです。

ですので好物は避けてあげた方がいいかもしれませんね。

私達は孤高に生きることを目的としています。

故人の為にもいかに孤高に生きるかを意識してほしいです。

 

 

「あかきこころ」のモナcoでした。

「込める」意味

「込める」意味

 

ごきげんよう、モナcoです(^-^)

「宿命=生まれる前に決まっているカリキュラムのこと(性別、生まれる場所等)」には

「寿命」も含まれています。

絵空事のように思うかもしれませんが、

寿命はすでに決まっていて、生まれた時には

いつまで生きれるかという記憶は薄れ無くなります。

 

なぜ、薄れ無くなるのかというと、

「自分は〇〇歳に死ぬことになっているから、あと〇年だ」

と思いながら日々生活しているとまったく味気ない人生、つまり

生きている喜怒哀楽をしっかりと味わうことができなくなってしまいます。

これでは「生きている」本当の意味がありません。

 

脅かすような内容かもしれませんが、

「今日、明日に自分や大事な方の命が終わってしまうかもしれない。」

当たり前のように「明日がくる」とは限らないということなのです。

 

昔のテレビで「天国からの手紙」という番組がありました。

これはスピリチュアリストの江原啓之さんが突然の不幸で亡くなった方の思いを

家族に伝えるという番組。

感動で涙もののお話ばかりです。

思いを残した魂が成仏できないままでいる、

その思いを江原氏が家族に伝え、成仏させるのです。

ですから、勘違いしてほしくないことは

霊=オカルトチックな内容では全くないというところ。

幽霊の絡んだ映画で恐怖を煽るような内容は人々を惹きつける為の演出にすぎません。

幽霊として出て来る場合は、ほぼ何かしらの思いを残したままで、

誰かにわかってほしいからなのです。

 

番組で放送された事案すべてに共通することは

「当たり前のように明日は来るはずだった」というところ。

こんなことと思うかもしれませんが、

前述したように「寿命」は決まっているのです。

ですから「明日は来ないかもしれないと思いながら精一杯1日を過ごす」

このことを胸に刻んでいただきたい。

モナcoもその思いで日々過ごしています。

できるだけ伝えたいことは伝えておく(このブログもそうです)

おこなっておきたいことはするように心がけています。

もし、自分の命がどんな終わり方をするにせよ、

急に自分が亡くなってしまっても大事な家族が困らないように

エンディングノート」も作成する予定です。

1日の締めくくりには「お陰様で無事1日過ごすことができました。」などと

呟くのも良いですね。

 

どうしても現世は物質的な世界ですから「長生きが良い」

という考え方に傾いてしまいます。

ですが、

どれだけ生きたかではなく、どれだけ込めたか

この心持ちが重要になるのです。

今日から1日1日をただなんとなく過ごすより、

込めた1日を一人でも多くの方に過ごしていただきたいものです。

 

 

「あかきこころ」のモナcoでした。

映し鏡の原理

映し鏡の原理

 

ごきげんよう、モナcoです(^_^)

私達は常に誰かと関わりながら生きています。

これだけ周りにたくさん人がいるとその数だけの考え方や生き方があります。

馬が合い親しくなる人、うまく噛み合わない人、いますよね。

特に噛み合わない人に向けて、

「あの人はおかしい、自分勝手だ!」

「その考え方は普通ではない」

と思うのではないでしょうか?

ほとんどの人は「自分だけはしっかりできている」や「普通の考えだ」と思いがち。

 

でも、ちょっとそこで!!

前回触れた「宿命・袖振り合うも多生の縁」の話に付け加えて

人は自分と同じ波長の人と出会います。

もし、自分が弱い心でいると弱い心の人、

不平不満が多い時には愚痴が多い人に出会うのです。

ですから、日々の生活の中で

「対人」に目を向けると今の自分の心の状態がわかるということ、

これが「映し鏡の原理」

 

「愚痴が多い人だな」と思った時、

「そう言えば自分も最近愚痴が多いなぁ」と理性で自己分析することが大事です。

「なんでそういう考え方になるのかな?」と心理を分析したり、

「自分にも少なからずあるかも」と省みるのです。

それに気づけば自分には何が足りないのかが見えてくるはず。

努力すれば、自然と出会う人も変わってきます。

「自分の周りにはいい人ばかり」という人生に変えることもできるということです。

 

「あかきこころ」のモナcoでした。

ハンドパワーを侮るなかれ

ハンドパワーを侮るなかれ

 

ごきげんよう、モナcoです♪( ´θ`)ノ。

体が疲れた時の解消法はひとそれぞれかもしれませんが、

よく耳にする効果的な方法として、

「睡眠、入浴、マッサージ」なんていうものが挙げられます。

今回は「マッサージ」について。

 

「疲れた→肩こり、腰痛→マッサージ」の流れが

よく目にするのかなぁ~と思います。

マッサージをする時にはマッサージチェアに頼る方もいると思いますが、

ぜひ「手」を使っていただきたいです。

それは手のぬくもりには癒しの効果(ヒーリング)があるからです。

疲れた部分や調子が悪い部分に手をそっと当て摩ってあげるのです。

 

皆さんも一度は経験があるはず。

思い出してみてください。

小さい頃、おなかが痛い、傷を負った時、お母さんやお父さんが摩りながら

「痛いの痛いの飛んでいけ~~!!」とおまじないしてくれたこと。

なんだか痛みも軽減され、スッとした気持ちになったことありませんか?

これも「手=ハンドパワー」の効果。

癒そうとする念が込められているのです。

ですから、誰しも「ヒーリング」するチカラを持っています。

病気やケガを治療する時「手当てする」といいますよね。

そう、手を当てるのです!!!

ですから、子供さんだけではなく誰にでも「手当て」をしていただきたい。

気持ちが高揚している、落ち着きがない方に

背中を摩ってあげるのもいいですね、落ち着きますよ。

 

そして自分にも。

お風呂に入った時、湯船で全身を隈無く摩ることも1日の体を癒すことができます、

ぜひ、ご自身の体も労ってほしいですね。

 

「あかきこころ」のモナcoでした。

 

 

思考を止めるな!!

思考を止めるな!!

 

ごきげんよう、モナcoです(๑˃̵ᴗ˂̵)v

インターネットの普及により昔と比べて随分とたくさんの情報を誰でも得られる世の中になりました。とってもありがたく便利ですね。

わからない言葉も分厚い辞書からではなく「ネット検索」

しかも最近は文字を手打ちで入力しなくても「音声」で検索できるようにもなっていますよね。

文明の利器はなんとまぁ素晴らしい。

 

しかしこれも陰と陽。

情報が多くなることはありがたいのですが、

それと同じくらいかなりのフェイク(偽)情報も流れています。

実はテレビの情報も同様です。

その溢れかえっている情報をただボォ~っと見聞きしていませんか?

情報を鵜吞みにして、おしゃべりのネタなどにして・・・。

 

ここで!!

本当にそれでいいのか?ということ。

「インスタント脳」という言葉をご存じでしょうか?

要は「考えが浅い、もしくは考えない。」ということ。

もしかしたらフェイクかもしれない、

エビデンスもない情報かもしれません。

私達はしっかりと精査することが大事になってきます。

 

考えないのは罪です。

 

普段から「なぜだろう?」「分析する」を習慣をつけること。

たくさんの分析と思考が「心眼」へと繋がっていきます。

大きな闇に踊らされず、吞み込まれない為にも

「考えることを止めるな!!」

 

 

「あかきこころ」モナcoでした。

出会う人との関わり

出会う人との関わり

 

ごきげんよう、モナcoです(๑˃̵ᴗ˂̵)g

私達は生まれてから現在まで、たくさんの人との関わりがあります。

友人、職場の人など、コンビニの店員など生活に関わる方まで加えると

本当にたくさんいます。

これらの方々の関わりはすべて「宿命」で出会うことが決まっています。

「宿命」なんて聞くとちょっとその辺で見聞きするファンタジーなお話に

聞こえますよね?(笑)

「あの人とはやっぱり結ばれる宿命だったんだ♡」なんて。

また逆に、この手の話は「胡散臭い」なんて・・・(微笑)

 

ここからが本題。

確かに出会う人は決まっています。

その人にふさわしい学びができるよう出会うようになっているので。

ただ、私がお話しているのはずっと変わりませんが、

「すべては自分主体」というところ。

出会う人は「宿命」で決まっていますが、

その人との縁をどう結んでいくかは自分次第「運命」なのです。

 

では「宿命と運命」について。

「宿命」は私たちの学びに必要な素材。

そーですねぇ・・・?

例えるとケーキでいうとスポンジの部分、土台でしょうか。

これは変えることができません。

生まれる時代や国、性別、寿命、出会う人・・・。

すべて生まれる前に決まっています。

 

そして「運命」はケーキのスポンジにのせるデコレーションとでもいいましょうか。

イチゴケーキにしたり、チョコレートケーキにしたり

自分次第で様々なケーキに仕上げていけますよね。

その時代、国でどんな生き方をするのか?

出会う人とどんな縁を結んでいくのか?

 

結婚相手もそうだったりします。

「この人と一緒になればこんな学びができるぞ!」という相手と出会わせてくれます。

結ばせるためにちょっとした「恋心」をスパイスとして添えます。

しかもひとりだけでは無いです。→宿命

そこから自分にふさわしい相手を自分で選び婚姻関係を結びます。→運命

ですから、すべて責任主体。

よ〜く、理性の目で見定めること。

袖振り合うも多生の縁、

出先の電車の中で隣に座った人でさえも「宿命」なのです。

 

結婚相手や職場の人、ママ友との関係で

いざこざや不満が出てきてしまうことがあると思います、

その相手の中をしっかりよ〜く見つめて自分に対して何が学びなのか、

分析することが大事となってくるのです。

 

 

「あかきこころ」のモナcoでした。

 

 

 

転ぶ権利

転ぶ権利

 

ごきげんよう、モナcoです(๑˃̵ᴗ˂̵)v

 

さて、タイトルにもあります「転ぶ権利」とは

一体どういうことなのでしょうか?

ここでみなさんに質問です。

「私達はなぜこの現世に生まれてきたのでしょうか?」

 

 

実は「転ぶ為に生まれてきた」のです。

 

では、どう言うことなのか?

 

私達はまだまだ完璧な存在ではありません。

心(たましい)は未熟な部分が多々あります。

その未熟な部分を成長させる為に生まれてきているのです。

 

人と人との摩擦によって私達の未熟な部分は曝け出され、

切磋琢磨して向上していくのです。

 

友人、勤め先の人、家族、親子どんな間柄であっても相手がいる限り、

何かしらの摩擦は起きます。

その時が自分自身を向上させるチャンス!なのです。

意見の衝突で感情のままに怒りを出してしまった、

心無いことをつい言ってしまい相手を傷つけてしまった、

また逆に傷ついてしまった、嫉妬、恨み、妬み・・・などなど。

 

常に私達の中には「理性と感情」があります。

「感情」での言動は気持ちがヒートアップしているので

つい涙目でものを見てしまいます、そうすると正しい判断が鈍ってしまいます。

涙を拭った目(理性)で見聞きし、

それから自分のアクション起こさなければいけませんが、

先ほども申し上げたように私達はそもそも「未熟」なので、

間違えはどんな人でも起こしてしまうのです。

家庭の小さな世界から広域な国と国同士であってもです。

 

ですから事が起こった(転んだ)後が大事。

誹謗中傷を受けたとしても100%自分は悪くないとは言い切れないということ。

自分にも何かしらの間違えはあるはずなのです。

 

起きたことに対して分析、反省せずにそのままにしてしまうと、

面白いことにまた同じ事が繰り返されます。

また転ばせます。

そう、神様は気づくまで何回も同じシチュエーションを与えるのです。

 

学校で先生が解けるまで同じ問題を出し続けているようなものなのです。

「あっ、そうか!!」と気づけば

この問題はクリアとなり、また別の問題が出されていきます。

ですから、よく親御さんに多いのですが、

子供がかわいそうな思いをしないようにと、

目の前の石を全部拾ってあげてしまう親がいますが、

これは本当に間違え。

親としての気持ちはわかりますが、これこそ

「転ぶ権利」を奪ってはいけません。

 

転んで、考えて、答えを出して前に進んでいく。

親は見守りで十分、本当に必要な時だけ手を差し伸べる。

親の人生ではなく、子供の人生なのですから

力強く生きていくチカラをつけさせるのが親(大人)の役目なのです。

 

何も無い人生は味気ない。

一人でも多くこのことに気づき、

果敢に問題に立ち向かい存分に人生を謳歌していただきたい。

 

 

「あかきこころ」モナcoでした。